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ご由緒
延暦七年(788)、伝教大師最澄が一乗止観院(のちの根本中堂)を創建。弘仁十三年(822)延暦寺に大乗菩薩戒を授ける戒壇が設置される。 平安時代を通して、慈覚大師円仁、智証大師円珍、慈恵大師良源、恵心僧都といった数々の名僧を輩出。 中世には多くの荘園を抱える権門として絶大な影響力を持つ。 元亀二年(1571)、織田信長の焼き討ちに遭うも、江戸幕府が開かれると、徳川家康の側近であった慈眼大師天海の尽力により復興される。
「国宝的人材を育てる」日本仏教の母山
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ひえいざんえんりゃくじ
滋賀県大津市
1200年の歴史を示すように、世界文化遺産「比叡山延暦寺」は東塔・西塔・横川の三つのエリアに分かれた広大な境内に約100の建物が軒を連ねます。桜・新緑・紅葉、そして雪など四季折々の季節の移ろいが彩りを添える、山上のみほとけの世界へ歩みを進めてみませんか。
延暦寺の総本堂である根本中堂は、もとは「一乗止観院」と呼ばれ、延暦七年(788)に伝教大師最澄が延暦寺の中でも最初に建立。堂内には最澄が灯して以来1200年に渡って比叡山を照らし続けている「不滅の法灯」があり、御本尊の薬師如来像は最澄自作のものと伝わる。創建当初は三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)が並んでいたが、円珍(智証大師)の時代に大きな伽藍に三堂をまとめられ、平安時代中頃の良源(慈恵大師)によって現在とほぼ同じ規模の形となった。現在の建物は江戸時代の寛永十九年(1642)に徳川家光により再興したもので、国宝に指定されている。1200年紡がれてきた比叡山の歴史の長さを一番感じられるお堂である。
法華総持院東塔は、伝教大師最澄が全国六箇所に創建することを発願した六所宝塔の中心的役割で、最澄の遺志を継いだ慈覚大師円仁の時代に創建。室町時代の戦火で焼失し長らく復興されなかったが、最澄の出家1200年を機に再建が始まり昭和55年に再興された。 東塔に隣接する阿弥陀堂は比叡山開創1150年記念として檀信徒の回向道場として昭和12年に建立された。
827年創建の戒壇院とは、伝教大師最澄がそれまで日本仏教界で主流であった具足戒に代わる新しい戒律(円頓菩薩戒)を取り入れようとし、戒壇の設置の許可を朝廷に求め、最澄の弟子、義真によって創建された。1571年に信長の焼き討ちで焼失したが、1678年に現在のお堂が再建。今も正式に天台宗の僧侶となるための儀式の場とされ、延暦寺でも重要な建物である。
釈迦堂(転法輪堂)は西塔エリアの本堂にあたる。最澄の構想のもとに第二代天台座主の円澄によって創建。現在の延暦寺の中で最も古い建造物。大津の三井寺の彌勒堂(金堂 貞和三年(1347))として建立されたものを、織田信長による比叡山焼き討ち後、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉が移築した。
横川中堂は嘉祥元年(848年)に慈覚大師円仁によって根本観音堂として創建。円仁がご本尊の聖観音像と毘沙門天像を安置した。その後慈恵大師良源によって改修された際に不動明王像が安置され、中尊として聖観音、両脇侍に毘沙門天・不動明王を祀る横川形式が整った。平安末期より何度か火事があり、信長の焼き討ちで焼失した後、豊臣秀吉の妻、淀君によって再建されたが、昭和17年の落雷で焼失、ご本尊のみ災火を免れた。本尊の聖観音像は平安時代後期の12世紀頃のもので重要文化財に指定されている。現在の建物は昭和49年に復元された。
元三大師堂は慈恵大師良源が住んだ定心坊を起源とするお堂。延暦寺中興の祖とされる慈恵大師良源は正月三日に亡くなったことから元三大師とも呼ばれている。良源が春夏秋冬の四季に『法華経』の講義を行ったことから四季講堂とも称される。良源は御神籤の創始者ともされるほか、厄除けのご利益がある「角大師」としても信仰を集めている。現在のお堂は江戸時代前期の承応元年(1652)に再建されたもので、重要文化財に指定されている。
学生レポート
京都大学大学院文学研究科修士1年
ご由緒
延暦七年(788)、伝教大師最澄が一乗止観院(のちの根本中堂)を創建。弘仁十三年(822)延暦寺に大乗菩薩戒を授ける戒壇が設置される。 平安時代を通して、慈覚大師円仁、智証大師円珍、慈恵大師良源、恵心僧都といった数々の名僧を輩出。 中世には多くの荘園を抱える権門として絶大な影響力を持つ。 元亀二年(1571)、織田信長の焼き討ちに遭うも、江戸幕府が開かれると、徳川家康の側近であった慈眼大師天海の尽力により復興される。
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