history
ご由緒
寺伝によれば、平安時代前期の嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁による開山。平安時代末期の長治二年(1105)、奥州藤原氏初代の藤原清衡によって造営。文治五年(1189)、源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされて以後、次第に荒廃していく。江戸時代に入ると仙台藩のあつい保護を受け、多くのお堂が再建される。
奥州藤原氏が願った平和への想い
いいね 0
ちゅうそんじ
岩手県西磐井郡平泉町
中尊寺には、国宝に指定されている金色堂をはじめとした奥州藤原氏の文化がたくさん残されています。お寺を回ることで藤原氏の栄華を味わることができるとともに、仏に願う厚い想い感じてみましょう。
中尊寺を代表する文化財である金色堂は、天治元年(1124)に建立された。 堂の内外は全面的に金箔で覆われ、内陣の柱や組物、須弥壇などは螺鈿・蒔絵・金具で飾っており、奥州藤原氏の栄華を今に伝えていいる。堂内の仏像も奥州藤原氏の造像で、すべて国宝に指定されている。須弥壇の下には現在も奥州藤原氏三代の遺体が安置されている。
今なお平安の輝きを保っている金色堂は、奥州藤原氏滅亡後の鎌倉時代にはすでに金色堂を未来に保存しようとする動きが見られた。それが、金色堂を守る覆堂の造営である。現在の建物は室町時代のもので重要文化財に指定されている。昭和の大修理までは、この覆堂が金色堂を風雨から守っていた。
中尊寺の宝物館には讃衡蔵という名前がついている。奥州藤原氏は代々、名前に「衡」という字を用いてきた。そんな奥州藤原氏を「讃」えるという意味が込められている。中尊寺の各堂舎で祀られていた奥州藤原氏時代の仏像や荘厳具、藤原氏の日用品などが展示されている。
建武四年に火災に遭い、平安後期の古材を用いて再建されている。堂内には創建時の彩色文様が残され、三方七段の経架の柱頭・柱脚には木製漆箔の蓮弁座が添えられている。騎獅文珠五尊像や紺紙金字一切経等が安置されていたが、現在讃衡蔵に安置されている。
中尊寺の中心道場で、明治四十二年に再建された。一山法要のほとんどがこの本堂で勤修される。本尊は丈六の釈迦如来坐像である。中尊寺の大壇主である藤原清衡が鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにちなみ再興された。中尊寺経の見返し絵にちなみ説法印を結ぶ。東日本大震災により本堂も壁が壊れる等の被害を受けた。このようなときにこそ手を合わせる仏さまが重要であるとして平成二十五年に完成した。
学生レポート
奈良大学・三年
ご由緒
寺伝によれば、平安時代前期の嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁による開山。平安時代末期の長治二年(1105)、奥州藤原氏初代の藤原清衡によって造営。文治五年(1189)、源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされて以後、次第に荒廃していく。江戸時代に入ると仙台藩のあつい保護を受け、多くのお堂が再建される。
参拝情報