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ご由緒
伝教大師が比叡山に開いた住房「青蓮坊」を起源とする。 平安時代末期の嘉応元年(1169)、鳥羽法皇の皇子、覚快法親王が青蓮院で得度するにあたり、三条白川に青蓮院を新しく造営し、院の御所に準じる扱いとした。 鎌倉時代初期の元久二年(1205)、慈円が現在地に移した。 鎌倉時代には法然上人や親鸞上人ともゆかりがあり、本願寺との関わりも深い。 応仁の乱で焼失するも、江戸時代初期に復興された。
御所としても用いられた、皇室ゆかりの門跡寺院
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しょうれんいんもんぜき
京都府京都市東山区
青蓮院は火災等の被害に遭いながらも、円仁の厳修した「熾盛光法大法(しじょうこうほうだいえ)」や文化財を守り伝えています。また青蓮院は和風唐風を融合した青蓮院流が生まれた場所でもあります。境内を巡り、伝統と文化が受け継がれ生まれた場所に触れてみましょう。
本堂の奥に安置される。金鎖甲や海老籠手、地天女を踏む点等から兜跋形の毘沙門天像である。熾盛光堂(建永元年)および大懺法院(承元二年)が設けられた際に毘沙門天像が祀られたことが文献から分かり、どちらかに安置されていたと想定される。快慶周辺の慶派仏師の作であるとみられる。
青蓮院の御本尊は『熾盛光如来曼荼羅』という珍しいものである。熾盛光如来は大日如来の仏頂尊(頭の頂におられる極めて崇高な仏さま)であり、全国でもこの仏を御本尊としているのは青蓮院門跡のみである。現在の御本尊は豊臣秀吉によって復元再作成奉納されたものである。 この熾盛光如来を本尊とする熾盛光法大法は、慈覚大師円仁によって始められた天台宗でも重要な修法である。宮中から天変地異や疫病を収めることや国の平和などを祈願する役割を担った。
門跡寺院の中でも最も重要なお堂が宸殿である。門跡寺院特有なもので、主要な法要を行う。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が当時の門主慈円によって得度した縁で、「お得度の間」とも言われる。 青蓮院門跡の宸殿は江戸時代の御水尾上皇の中宮である東福門院のために建てられた御常御殿を天和三年(1683)に移築したもので、明治二十六年(1893)に火災で焼失したが、二年後に忠実に復元された。
宸殿にある重要文化財の障壁画「浜松図」は狩野派による作で、徳川秀忠の娘、和子が御水尾天皇に入内した時に持参したものと伝わる。 宮中の美術をつたえる門跡寺院らしい文化財といえる。
平安時代に描かれた不動明王像で、体を青黒色で表している特徴から「青不動」と呼ばれてる。園城寺の黄不動、高野山の赤不動と並び称される、平安仏画の傑作である。 実物は将軍塚青竜殿奥殿に安置されている。(通常非公開)
レポート
奈良大学文学部文化財学科4年
ご由緒
伝教大師が比叡山に開いた住房「青蓮坊」を起源とする。 平安時代末期の嘉応元年(1169)、鳥羽法皇の皇子、覚快法親王が青蓮院で得度するにあたり、三条白川に青蓮院を新しく造営し、院の御所に準じる扱いとした。 鎌倉時代初期の元久二年(1205)、慈円が現在地に移した。 鎌倉時代には法然上人や親鸞上人ともゆかりがあり、本願寺との関わりも深い。 応仁の乱で焼失するも、江戸時代初期に復興された。
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