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ご由緒
奈良時代末期の延暦11年(792)、最澄が比叡山根本中堂を造営するための材木を求めてこの地を訪れ、櫟の木から本尊を造り、この地に安置したことにはじまる。 また、延暦21年(803)には坂上田村麻呂が鈴鹿峠の山賊追討(鈴鹿山の鬼退治と伝わる)のためにこの寺の観音さまに祈願し、無事に平定できたお礼に堂を建てたという。
総高5メートルを越える日本最大坐仏の「いちいの観音」さま
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らくやじ
滋賀県甲賀市
日本で最も大きい十一面観音坐像をはじめ、平安時代の仏像が20躯以上も並び立つ光景は圧巻。是非、春と秋の特別拝観の時期に参拝してください。
重要文化財に指定されている御本尊の十一面観音像は、平安時代10世紀の造立とされている。像高3.12メートルとなる大きなお姿は、坐像として日本一の大きさである。最澄による逸話により「いちいの観音」と称されている。お像の台座に収められていた木箱から籾が見つかったことでも話題に。ご本尊は、春と秋に特別公開されている。
像高2.22メートルとなる周丈六像である薬師如来坐像。平安末期に確立された「定朝様式」の像で、滋賀県で一番大きい薬師如来坐像であり日本全国から多くの方々が参拝に訪れる。
平安時代初期、坂上田村麻呂公が鈴鹿山の山賊の追討を櫟野寺で祈願したという。その願いが叶い、等身大の毘沙門天像をおまつりしたと伝わっている。この像は10~11世紀ころに造立されたと考えられている。江戸時代には坂上田村麻呂公に対する信仰が盛んになり、多くの参拝者が櫟野寺に訪れたという。
櫟野寺末寺の地蔵院寛澤寺の本尊であったとされる。像内には文治3年(1187)の銘記がある。腹帯をしてるお姿から安産のお地蔵さまとして信仰が伝わる。
櫟野寺には平安時代に造立された仏像が多く伝えられている。かつて、櫟野寺には仏像を造る工房が置かれ、同時代に同じ様式の仏像が甲賀一帯におまつりされていたと考えられている。櫟野寺周辺の仏像に見られる特徴的な仏像群を櫟野寺様式の仏像と呼ばれている。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科2年
ご由緒
奈良時代末期の延暦11年(792)、最澄が比叡山根本中堂を造営するための材木を求めてこの地を訪れ、櫟の木から本尊を造り、この地に安置したことにはじまる。 また、延暦21年(803)には坂上田村麻呂が鈴鹿峠の山賊追討(鈴鹿山の鬼退治と伝わる)のためにこの寺の観音さまに祈願し、無事に平定できたお礼に堂を建てたという。
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