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ご由緒
天平9年(737)に行基により創建され、現在の地に慈覚大師がお寺を整備したと伝わる。杉木立の奥に位置する大日堂には、10世紀後半に造立された胎蔵界大日如来像がおまつりされている。大日堂の外陣には、かつて山形市内を見下ろしていた大仏の再興像がまつられている。
平安時代から幕末まで。多様なお像の眼差しに出会う
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へいせんじ
山形県山形市
1つのお堂の中にところせましとお像がおまつりされる姿は圧巻。1体1体それぞれのお像に伝わる逸話も魅力的です。
天平9年(737)に行基菩薩によりお堂が造られ、仁寿2年(852)に慈覚大師が、現在地に大日如来坐像と大日堂を移したという。慈覚大師がご本尊の大日如来にお水を差し上げようとし、錫杖で地面を衝いたところ、白い蛇が出てきたあとコンコンと水が湧き出したことにより「平泉寺」という寺号になった。大日堂におまつりされる胎蔵界大日如来坐像は、近年の調査により10世紀後半の造立とされ、京都の東寺や醍醐寺の大日如来と並ぶ最古級の胎蔵界大日如来坐像として注目されている。大日如来坐像は秘仏であるためお姿を拝むことはできない。
大日堂のご本尊・胎蔵界大日如来坐像の両脇には、平安時代に造立された広目天立像と増長天立像がおまつりされる。もともと四天王像として造立されたと伝わり、残りの多聞天立像と持国天立像は破損し、ご本尊の宮殿の下におさめられていると伝わる。ご本尊の向かって左側には平泉寺を気に入り何度も場所を移しても空を飛び平泉寺に戻ってきたという「飛行地蔵」がおまつりされている。この飛行地蔵は山形百八地蔵札所の第六番札所に数えられている。向かって右側には、不動明王立像がおまつりされ、その両脇には制多迦童子と矜羯羅童子を両脇に従えている。
山形城主であった奥平昌章公により、寛文12年(1672)山形市東部の千歳山に像高9メートルにもなる大仏が造立された。天保3年(1832年)に惜しくも火災で焼失したが、その後宗派を超えての復興が始まった。そのときの記録が「大佛勧化帳」として平泉寺に残されている。しかしながら幕末の動乱により頭部のみ造立されるに留まり、造立された大仏の頭部は平泉寺大日堂でおまつりされた。近年東日本大震災の影響による傾きやひびが修復され、優しい眼差しを参拝者に向け続けている。
客殿中央には、平安時代後期・12世紀後半に造立された釈迦如来坐像がおまつりされている。像高56.2cm、一木造の像である。頭頂部の肉髻は大きく螺髪は細かく、目と鼻は小さく彫られているため、全体的に柔和な表情をされている。また像の胸部の奥行きは薄く衣文線は穏やかなすらりとした作風を示し12世紀後半に造立された仏像の代表的な特徴を多く兼ね備えている。印相は定印(法界定印)を結ぶが、肘から先は後の時代に補われており本来の印相は不明である。
学生レポート
立命館大学生命科学部4年
ご由緒
天平9年(737)に行基により創建され、現在の地に慈覚大師がお寺を整備したと伝わる。杉木立の奥に位置する大日堂には、10世紀後半に造立された胎蔵界大日如来像がおまつりされている。大日堂の外陣には、かつて山形市内を見下ろしていた大仏の再興像がまつられている。
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