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ご由緒
鶴林寺縁起には、蘇我氏と物部氏の争いから逃れていた高麗(こま)の僧・恵便法師のために聖徳太子が秦河勝に命じて、崇峻天皇2年(589)この地に3間4面の堂舎を建立させたことに鶴林寺の歴史がはじまると記されている。その後、養老2年(718年)に七堂伽藍が整備され、天永3年(1112)に寺号が「鶴林寺」に改称された。中世に最盛期を迎え、寺坊は30坊以上、寺領2万5千石にもなったという。
文化財建造物が林立する「刀田(とた)のお太子さん」
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かくりんじ
兵庫県加古川市
「刀田(とた)のお太子さん」と呼ばれる鶴林寺には、国宝2件、国指定重要文化財18件、兵庫県指定文化財12件にものぼる貴重な文化財が守り伝えられています。聖徳太子信仰の中心地として多くの人々の拠所である鶴林寺の境内を巡りましょう。
鶴林寺の本堂は和様・大仏様(天竺様)・禅宗様(唐様)の3つの建築様式が組み合わさった折衷様の代表的建築として国宝に指定されている。桁行7間、梁間6間、本瓦葺きの雄大な建築で、内陣の宮殿(くうでん・お厨子のこと)の棟札に応永4年(1397)銘があることからその時期の建物とされる。国宝本堂の内陣の宮殿内には、平安時代に造立されたとされる薬師三尊像が安置されている。その脇には同じく平安時代に造立された持国天・多聞天の二天王立像が守りを固めている。宮殿の扉が開くのは60年に1度。前回のご開帳の際、初めての本格的な調査をし、すぐに国指定重要文化財となった。なお、内陣の板戸には鶴や水鳥の絵が描かれているが、板戸に描かれた絵としては日本最古であるという。
天永3年(1112年)と旧屋根板に墨書が残り、そのときの建物と考えられている。元々は法華堂と呼ばれていたが、聖徳太子信仰の隆盛により、東側の壁面に描かれた聖徳太子像への信仰が高まり、太子堂と呼ばれるようになった。内部には平安時代に描かれた極彩色の壁画が残り、宝物館内に復元されている。
太子堂と同様に平安時代に建立されたという常行堂。もともと法華堂と呼ばれた太子堂と同規模の建物である。法華堂と常行堂を同じ規模で並列して建立する様式は天台宗特有の様式で、現存している例は少ない。昭和14年に解体修理が行われた際、床下から約30体の頭蓋骨が発見されたという。一説には戦国時代、羽柴秀吉軍との戦のときの犠牲者の遺骨とされる。
60年に1度ご開帳される本堂のご本尊。ご本尊の代わりに常にお姿を拝めるお薬師さまをと、延宝6年(1678)、大坂の医師であった津田三碩により新薬師堂と仏像が寄進された。このお堂と仏像は他所から移されてきたと考えられている。近年、ウインクをしているようなお姿である摩虎羅大将立像が人気を集めている。
平成24年(2012)に太子堂創建900年を記念して開館した。館内には太子堂須弥壇の再現空間や鶴林寺に伝わる仏像、絵画などの貴重な文化財が展示される。「あいたたの観音様」と呼ばれる兵庫県最古の白鳳時代につくられた金銅仏や本物の髪の毛が植え付けられている鎌倉~室町時代造立の聖徳太子立像(平時非公開)を納める髹漆厨子が展示されている。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科1年
ご由緒
鶴林寺縁起には、蘇我氏と物部氏の争いから逃れていた高麗(こま)の僧・恵便法師のために聖徳太子が秦河勝に命じて、崇峻天皇2年(589)この地に3間4面の堂舎を建立させたことに鶴林寺の歴史がはじまると記されている。その後、養老2年(718年)に七堂伽藍が整備され、天永3年(1112)に寺号が「鶴林寺」に改称された。中世に最盛期を迎え、寺坊は30坊以上、寺領2万5千石にもなったという。
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