境内にそびえ立つ国宝の数々。建物に秘められた歴史を尋ねる
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みいでら(おんじょうじ)
三井寺(園城寺)
滋賀県大津市
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三井寺(園城寺)の創建は飛鳥時代に遡り、平安時代前期に智証大師円珍によって再興されたことで天台宗の寺院となりました。平安時代には朝廷の祈願寺院として本朝四箇大寺の一つに数えられていた大寺院で、幾度の災禍を乗り越えながら復興を繰り返し現在にまで受け継がれているため、「不死鳥の寺」とも呼ばれています。
三院・九谷と称される広大な境内には、国宝4棟をはじめとする堂舎が立ち並び、その歴史とともに蓄積された多数の寺宝を今に伝えています。
巡りポイント
三井寺は琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有しており、たくさんの文化財とともにに四季折々のさまざまな自然を味わうことができます。境内の中には近江八景の一つである三井晩鐘や松尾芭蕉・正岡子規等が愛したとされる琵琶湖の景色を眺めることができ、境内を巡りながら過去の人々が感動した風景を実感してみましょう。
また現在では多くの映画やドラマの撮影地にもなっています。
国宝 金堂
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北政所再建の桃山時代建築
金堂は桃山時代の慶長四年(1599)、豊臣秀吉の妻北政所によって造営された。
元の南北朝時代に建てられた三井寺の旧金堂の建物は比叡山西塔に移築され、転法輪堂として残されている。
文禄元年(1592)に三井寺は秀吉の怒りを買い闕所(財産没収)となり、当時織田信長の焼き討ち後の再興の途上であった延暦寺に移築されることになった。
秀吉の死の直前、闕所は解かれ、徳川家康や毛利輝元といった大名たちにより園城寺の伽藍が再建が行われた。
感想■金堂は大きく重量感を感じさせるお堂でありながら、檜皮葺の屋根がなだらかでやわらかいようにも感じました。
中には多くの仏像が安置されていました。さまざまな時代の仏像であり、多くの困難に遭いながらもそれぞれの時代の僧侶のみなさまの努力により守られ現在に至っているということに感動を覚えるとともに、これだけの像が造られていたというこの園城寺の誇った勢力の大きさを感じられました。
重文 大門
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徳川家康寄進の室町時代建築
大門は桃山時代末期から江戸時代初期の再興の際に三井寺に移築されてきた建物の一つである。
湖南市の常楽寺に室町時代の宝徳四年(1452)に建てられた大門は、豊臣秀吉によって伏見状へ移されていた。それを徳川家康が移築してきた。
感想■本堂とは異なり、どっしりとした重厚感はありながら組物や彫刻の繊細さも感じることのできる美しい門であると感じました。また同時期に造られてた金剛力士像も安置されていました。動きがありながらも、比較的落ち着いた表現がされており、参拝者を見張りながらも心配してくれている像のように感じました。
食堂(釈迦堂)(国重文)
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御所の姿を今に伝える建築
京都御所の清涼殿として天皇が謁見の際に使われていた建物をそのまま移築したと伝えられている。天皇の住居としての役割を持ち建築された建物であるため、一般的な寺院とは異なり角材が多用される。また内陣には丸材が用いられているが、それは天皇が神と同じ扱いであったことを示している。
感想■建物の材について考えたことがなかったので、柱の形から元は住宅としての機能が主であったことや天皇を神として扱っていたことが分かることに驚きました。
中央に安置されている釈迦如来立像は、清凉寺の像を摸刻したもので室町時代の作であるということを聞きました。截金文様が繊細に表現されており、じっくりと拝んでいたいと思わせる像であると感じました。
光浄院客殿
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「日本家屋」の原型を残す建築
園城寺の子院の一つで、慶長六年(1601)に豊臣秀吉に仕えた武将で園城寺の僧でもあった山岡道阿弥が十円防の跡に建立したことにはじまる。一般的な日本家屋の原型的な特徴が表れており、床の間が誕生する過程で生まれた飾り棚や書院造の原型といわれる「付書院」がある。また江戸時代初期の木割書『匠明』に載せられた「武家造主殿之図」に類似しており、桃山時代の標準的な住宅建築として貴重である。
感想■光浄院客殿の中に入ると狩野山楽の絵に囲まれました。大画面の迫力に圧倒されるとともに、外からの灯りでみる絵は博物館等では体験できない過去の人たちがみていた本当の姿をみることができ感動しました。
織田信長もこの場所を訪れていたなどそうそうたる歴代の武将たちが使った場所であるとの話を聞き、上座の間で座ってみると偉くなれたように感じました。
寺伝によれば、飛鳥時代に大津に都を置いた天智天皇によって発願されたが、壬申の乱の勃発により頓挫し、天武天皇十五年(868)に大友皇子の子大友与多王によって創建。在地豪族大友氏の氏寺となる。
平安時代前期の貞観年間、智証大師円珍により再興。
平安時代末期から源氏とのつながりも深く、鎌倉幕府とは良好な関係を築いた。
中世には山門・寺門の分裂から延暦寺と対立し、また交通の要衝であったことからしばしば戦乱に巻き込まれる。
桃山時代の文禄四年(1595)、豊臣秀吉により闕所(寺領没収)されるも、慶長三年(1599)再興を許され、伽藍が再建される。