history
ご由緒
4世紀頃、仁徳天皇の時代にインドから来た裸形上人によって開かれたと伝える。奈良朝時代の貞観10年(868年)から江戸時代中期(1722年)まで、南の海の先にあるとされる観音菩薩の浄土を目指し、20数回補陀洛山渡海という宗教儀礼が行われたことで知られる。ご本尊をはじめ、平安時代に造立された仏像をおまつりしていることでも知られる。
観音菩薩の浄土を目指して
いいね 0
ふだらくさんじ
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町
平成16年(1994年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産として世界文化遺産に登録されている補陀洛山寺。熊野信仰の拠点であるその境内には、神と仏が共存する信仰の一端が秘められています。
那智参詣曼荼羅図は熊野那智参詣隆盛時の様子や賑やかさを感じ事ができ、歴史上の人物を配して補陀洛渡海の上人の海中他界、山中他界も感じることができる物語にもなっております。
補陀洛山寺の裏山にある歴代上人のお墓。また、平維盛と平時子の供養もある。
補陀洛山寺は、那智七本願の1つとして大いに隆盛を極めたという。しかしながら、文化5年(1808)の台風で伽藍に大規模な被害が生じた。その後仮本堂の時代が続いたが、平成2年(1990)11月に金剛組により再建された。再建にあたり、室町時代の様式を用いた高床式四方流宝形型の建築としたという。
本堂中央、厨子の内部には、ご本尊・三貌十一面千手千眼観世音菩薩立像がおまつりされる。この像は、平安後期、香木を材料に造立されたと伝えられ、国の重要文化財に指定されている。ご本尊の特徴は、正面を向くお顔の左右に1つずつ異なるお顔が表現されていることである。ご本尊が入る厨子の左右には持国天立像と広目天立像がおまつりされている。もとは四天王立像として造立されたと考えられている。二天王立像はご本尊よりも古く、平安時代中期頃に造立されたと考えられている古像である。なお、ご本尊は通常秘仏であり、1月27日の立春の節分会、5月17日の渡海上人供養、7月10日の護摩供・先祖供養の年3回、御開帳される。
本州最南端の地にある補陀洛山寺は、かつてお寺の目の前が浜辺であったという。その浜辺より、補陀洛山寺の歴代の上人は南の海の彼方にあるという観音菩薩の浄土「南方補陀落浄土」を捨て身で目指したという。この宗教儀礼を「補陀落渡海」という。貞観10年(868年)から江戸時代中期頃(1722年)まで20数回ほど行われたと伝わる。境内には、補陀落渡海に使用されたという渡海船が復元されている。船の全長は6メートルほど。和船の上に入母屋造の箱が置かれ、その四方に鳥居が4基たてられている。この鳥居は、「発心門」、「修行門」、「菩薩門」、「涅槃門」の死出の四門を表しているという。境内の「補陀落渡海記念碑」には補陀洛渡海をされた歴代の上人の名前を記す。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科1年
ご由緒
4世紀頃、仁徳天皇の時代にインドから来た裸形上人によって開かれたと伝える。奈良朝時代の貞観10年(868年)から江戸時代中期(1722年)まで、南の海の先にあるとされる観音菩薩の浄土を目指し、20数回補陀洛山渡海という宗教儀礼が行われたことで知られる。ご本尊をはじめ、平安時代に造立された仏像をおまつりしていることでも知られる。
参拝情報