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ご由緒
建保2年(1214)に栄西禅師により開かれた廣福禅寺の子院(塔頭)として開かれたことに始まる。明治時代には廣福禅寺の子院は善福院のみとなり、釈迦堂を含む廣福禅寺の維持・管理は善福院が行うようになったため、善福院の名称で知られるようになった。境内に残る釈迦堂は、嘉暦2年(1327)頃の建築とされ、国宝に指定されている。
鎌倉時代を代表する国宝建築 -善福院釈迦堂-
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ぜんぷくいん
和歌山県海南市
日本を代表する名建築、釈迦堂を伝える善福院。建築を詳細に見ていくと、時代の荒波をいくつも乗り越えてきたことが感じられるでしょう。 国宝建築が醸し出す重厚な空間を味わいながら、建物を未来へつなごうとした先人達の願いや祈りに思いを馳せてみませんか。
境内にそびえ立つ釈迦堂は、かつて善福院の本寺であり建保2年(1214)に栄西禅師により開かれた廣福禅寺を構成する建物であるという。廣福禅寺を庇護していた加茂氏の没落や江戸から明治への移り変わりのなかで、廣福禅寺は荒廃してしてしまい、子院であった善福院が廣福禅寺を維持・管理するようになった。釈迦堂の屋根に葺かれている瓦には、「廣福禅寺」と記され、釈迦堂が廣福禅寺を構成する建物であったことを物語っている。
多くの天台宗寺院の建物とは異なり、釈迦堂は「禅宗様(唐様)」と呼ばれる建築様式で建てられている。例えば、須弥壇が位置する釈迦堂中心部には柱がなく、その代わりに大きな前後方向の部材(大虹梁)とその上に組み合わさる円柱状の部材(大瓶束)によって支えられるとともに、中心部のみ天井板(鏡天井)があり、それ以外の場所は屋根を支える構造が露出していること(化粧屋根裏)が特徴的である。また、床には瓦が敷かれ、屋根を支える柱は禅宗様の礎盤上に建てられていることも禅宗様を色濃く残す建物と称される所以である。なお堂内中央にはご本尊・釈迦如来坐像がおまつりされ、像内に記された胎内銘に嘉暦2年(1327)と記されているため、釈迦堂の建立時代もご本尊と同じ頃と考えられている。
禅宗様で建てられている釈迦堂には、珍しい建築部材が取り入れられている。燧梁と呼ばれるその部材は、釈迦堂内部の四隅の直角に交わる壁の近くにある45°状の短い斜め方向の部材(梁)である。この燧梁が残る宗教建築は善福院釈迦堂を含み、広島県福山市鞆の浦にある臨済宗寺院・安国寺釈迦堂、和歌山市にある真言宗寺院・松生院本堂の計3ヶ寺のみであると言われている。燧梁が宗派も異なる寺院の建築に共通して見られるかの詳細は未だ明らかではないが、一説には、和歌山県にゆかりがあり安国寺を創建した法燈派の祖である心地覚心(法燈円明国師)とその周辺の大工集団の影響とも推測されている。
学生レポート
立命館大学生命科学研究科1年
ご由緒
建保2年(1214)に栄西禅師により開かれた廣福禅寺の子院(塔頭)として開かれたことに始まる。明治時代には廣福禅寺の子院は善福院のみとなり、釈迦堂を含む廣福禅寺の維持・管理は善福院が行うようになったため、善福院の名称で知られるようになった。境内に残る釈迦堂は、嘉暦2年(1327)頃の建築とされ、国宝に指定されている。
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