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ご由緒
7世紀後半頃の創建とされる。「続日本紀」には、天智天皇が母である斉明天皇の追善を弔うために発願したとの記述がある。鑑真の来日後、天平宝字5年(761)に戒壇が設けられ、九州の寺院の中心として大いに栄えた。しかしながら、康平7年(1064)の火災により当初の仏像などは損壊してしまい、今に伝える仏像はそれ以降に造立された仏像である。度重なる戦乱や天災に巻き込まれながらも再興され、現在の伽藍は江戸時代に整えられたものである。
5メートルを超える巨大な仏像に囲まれて
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かんぜおんじ
福岡県太宰府市
宝蔵の内部に足を進めると、巨像が林立する圧巻の光景が広がります。日本の玄関口として世界各国の人々が訪れたという太宰府を象徴するように、個性豊かな表情をするお像たちが参拝者を出迎えます。
宝蔵の内部には観世音寺に伝わる16躯の巨像が林立している。観世音寺は康平7年(1064)と康治2年(1143)に火災に見舞われたことにより、現在観世音寺に伝わる仏像はそれ以降の像が大部分を占めるという。宝蔵は、観世音寺に伝わる貴重な文化財を守るために、各地に名建築を残した建築家である伊藤要太郎の設計により1959年に建立された建物である。
宝蔵の中央におまつりされる馬頭観音立像は、1126年から1130年に大宰大弐藤原常忠により造立されたと伝わる巨像である。像高503cmにもなり、桧材の寄木造で造立されているという。日本国内で最大の馬頭観音像である。馬が草を食べるように諸悪の根源を食べ、人々の苦しみを取り除くという。
馬頭観音立像の向かって右側に安置される木造不空羂索観音立像。像高517cmにもなり、樟材の寄木造で造立された本像の像内からは、観世音寺が建立された当時の本尊像の一部とされる心木と顔面部断片が発見された。像内には「貞応元年八月十四日、行事良慶、大仏師僧琳厳」の造立銘が記されており、1222年に造立されたことがわかる。
像高160cmで樟の一木造の古様を示す像である。雲の上に2匹の鬼と毘沙門天を支える地天を従わせる、いわゆる兜跋毘沙門天の様式をとる。衣の彫刻の様式や姿勢の様子より観世音寺に伝わる仏像群の中でも最古とされる10世紀頃の造立だと考えられている。
宝蔵内には、像高498cmにもなる十一面観音立像やもと講堂本尊であったという聖観音菩薩坐像、金堂本尊であった像高220cmの阿弥陀如来坐像がおまつりされる。他にも険しい表情をとる大黒天立像や吉祥天立像、地蔵菩薩立像、四天王立像などお像が林立する。仏像の他にも鎌倉時代に制作されたという舞楽面や三蹟の1人として著名な小野道風が記したという寺号額が展示されている。
講堂はもとは本堂と呼ばれた建物である。延喜5年にまとめられた観世音寺資財帳に記載された建物の規模からすると2.5分の1ほどに縮小されているという。内部中央には、文武天皇の頃肥前国杵島の沖で漁師に引き揚げられたとの伝承がある聖観音菩薩立像(国指定重要文化財)がおまつりされる。現在の建物は、1688年に福岡藩主黒田光之および天王寺屋浦了夢一族により再建された建物である。金堂は1631年に福岡藩主黒田忠之により再建された建物である。
碾磑とは大臼のことをいう。観世音寺に残る碾磑は奈良時代に使用されていたもので日本最古と伝えられ、直径1m、上臼の厚さ25cm、下臼の厚さ30cm、重量上下それぞれ400kgにもなるという巨大なものである。牛や馬の力を使い、朱を挽いていたと考えられている。
学生レポート
立命館大学生命科学部4年
ご由緒
7世紀後半頃の創建とされる。「続日本紀」には、天智天皇が母である斉明天皇の追善を弔うために発願したとの記述がある。鑑真の来日後、天平宝字5年(761)に戒壇が設けられ、九州の寺院の中心として大いに栄えた。しかしながら、康平7年(1064)の火災により当初の仏像などは損壊してしまい、今に伝える仏像はそれ以降に造立された仏像である。度重なる戦乱や天災に巻き込まれながらも再興され、現在の伽藍は江戸時代に整えられたものである。
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