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ご由緒
西暦606年の推古天皇の治世に聖徳太子により建立されたと伝わります。百済寺が反映するのは鎌倉期から室期期のことで、湖東の小比叡山知呼ばれ300あまりの寺院が存在する大きなお寺でした。織田信長の焼き討ちに遭うなど、何回もも受難を受けてきておりますが、寛永年間に復興されその法灯1400年間以上維持されています。
山の上から様々な歴史をみつめてきた近江最古の寺院
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ひゃくさいじ
滋賀県東近江市
百済寺は1400年以上の長い歴史の間、さまざまな歴史や出来事に積み重ねながら、山の上から地域を見つめ見守り続けていた寺院です。長い間守られてきた文化財や百済寺の歴史の痕跡が残ります。境内を巡り、積み重ねてきた歴史の息吹を感じてみましょう。多くは寛永年間に復興された塔頭寺院の遺構だありますが、中には織田信長の焼き討ち以前の状態が保存されている箇所もあります。
約250㎝の大きな像で、カヤの大木から彫出した奈良時代の像である。『日本霊異記』内に十一面観音を木彫で造る僧侶の話が収録されている。この像もそのような僧侶による造像である可能性が想像されている。 瑞光を放つ立木の杉の木を、聖徳太子が一刀彫で彫られた伝説があり、別名「植木観」」とも称される。信長の焼き討ちの際に急いで8キロほど離れた奥之院へ運び逃がしたため、今でもかかとに擦れの跡が残る。
寛永年間の再建で、譜代大名の筆頭である井伊家の支援を受け、滋賀県出身の甲良豊後守という日光東照宮などに携わった棟梁によって造られた。織田信長の焼き討ち以前は、現在の本堂より大きなお堂が別の場所にあったのですが、再建の際に今の場所に移られた。本堂は中世から近世へと変わる転換期の姿を示し、中世以前の外陣と内陣の区別があり、拝観者と僧侶の空間をはっきりと分けられている。
農作物の五穀豊穣を願うために、焼き討ちの後の天正十七年六月に寄進された絵馬である。白の絵馬は晴れを願うときに使われ、黒の絵馬は雨を願うときに使われた。真夜中この馬が暴れ出して困るため、絵に縄の絵を描き加えたところおとなしくなったという逸話も残る。
院派という仏師集団の「院祐」によって、明応八年(1499)8月27日に造られた造像銘と寛政二年の修理銘がある像である。信長による焼き討ちから逃れた像である。素地に金箔を施した像で、面貌の表現は、目が細く凛々しい。
学生レポート
奈良大学文学部文化財学科4年
ご由緒
西暦606年の推古天皇の治世に聖徳太子により建立されたと伝わります。百済寺が反映するのは鎌倉期から室期期のことで、湖東の小比叡山知呼ばれ300あまりの寺院が存在する大きなお寺でした。織田信長の焼き討ちに遭うなど、何回もも受難を受けてきておりますが、寛永年間に復興されその法灯1400年間以上維持されています。
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